アイドルは電脳握手の夢を見るか

アイドルは青春の縮図。

『ダブリンの鐘つきカビ人間』@パルコ劇場 感想

私が世界で一番愛している脚本家。それが後藤ひろひとである。

 

他の脚本家よりも後藤ひろひとのどのような部分が一番気に入っているかというと、それは彼のことを『非常にロマンチスト』と感じるところだ。そのように感じる脚本は幾つかあるが、その中でもこの『ダブリンの鐘つきカビ人間』の設定には一級品のロマンが詰まっていると思う。

全身カビだらけでみんなに疎まれている男(佐藤隆太)と、思ったことと逆の言葉しか紡げなくなってしまった女(上西星来)のラブストーリー。もう設定からしてロマンが生まれる予感しかしない見事な主人公の柱が2本、物語の中心に打ち立てられている。更にこの向かい側に、この旅行を最後に別れる予定の男(白州迅)と女(塚千弘)という、裏の主人公達が打ち立てられていて、このしっかりとした骨組みの上に、個性豊かな登場人物達が彩られるわけだから、面白くならないわけがない。

 

■「おさえ」と「私」

私はこの戯曲がとても大好きで、そう私に思わせる一番の要因は、やはり物語のヒロインである『おさえ』である。この街の人たちはいろんな病気にかかっているが、おさえは『思ったことと逆のことしか言えない』という呪いにかかっている。「こんにちは」と言えば真意は「さようなら」、「触って」と言えば「触らないで」、「大嫌い」と言えば「大好き」なのである。ここが作中の笑いポイントにもなりつつ、物語の大きな肝にもなる。

おさえは思ったことと逆なことしか言えない。だからこそ、おさえがカビ人間を救おうとすればするほど、周りの人たちには逆の意味で伝わっていく。おさえの言葉はまっすぐに人々に届かないどころか、意図したこととは全く逆の方向に、とても大事な人の運命を運んでいくのである。それでもおさえは叫ぶことを止めない。どんなに運命に翻弄されようとも、「何もしない」という選択をおさえは決してせずに、声をからして全力で叫ぶ。おさえは毎回女優さんが好演してくれるが、今回も上西星来ちゃんアイドルとは思えないほどの好演で魅せてくれた。

おさえを見ているとつくづく思うのは言葉の持つ力である。おさえが思ったことと逆の言葉しか言えない病気であることは観客である私たちも既に周知の事実であるが、それでも「大嫌い!」と目の前で言われると、心がその言葉に引っ張られるのである。その一瞬あとに冷静に頭が働いて、「ああ、彼女は大好きと伝えたかったんだな」ということをようやく理解できる。感情と理解というものはこんなにもバラバラに私の中で動いているのかと、普段生きていると意識しないことまで理解できる。そういう自分の中がバラバラになる感覚を味わった後におさえを見ると、大好きな相手に対して「大嫌い」としか言えない彼女の苦悩はどれほどのものだろうということを思い、より悲しさが増すのである。

ただ、おさえはたまたま分かりやすい病気にかかっているが、実際に生きる中でもそのような病気にかかっている人は少なくないのかもしれないと思う。自分の思ったことを思ったままに表現できない病気。更に言えば、自分自身もおさえのような瞬間があると感じる。自分の紡ぐ言葉が、自分の意図する気持ちとは違う形で他人に伝わってしまうことは、誰だって体験した事がある経験であろう。こんなつもりじゃなかったと思って泣いても、すべては後の祭り。きっと私たち人間は、わかりやすい病気にはかかっていないけれども、誰もが御しがたい、目に見えない病気を身体の中に抱えているのだ。

そんな私たちの心を、おさえをまっすぐに愛するカビ人間の在り方が、強く揺さぶるのだと思う。

 

■「カビ人間」と「おさえ」

まっすぐに届かない言葉におさえはもどかしい思いをするが、大好きな婚約者(かなりの人格者だが)ですらそんな彼女を受け入れようとはしてくれない。けれどもカビ人間は違う。彼女の言葉に丁寧に耳を傾け、受け止めてくれる。彼女は徐々に心をカビ人間に預けていくが、同時に私はいつも、カビ人間に出会えたおさえの幸運を思わないではいられないのだ。

 

美しい容姿に醜い心を持っていた青年が、病によって醜い容姿に美しい心をもったカビ人間になった。最終的におさえの犠牲により街の人々の病は解けるが、もしおさえ以外の人が犠牲になり、カビ人間もおさえも病が治ったのなら、その時はどんな結末が待っていたのだろうか。カビ人間は容姿も心も美しい青年になったのか?いや、恐らくは醜い心の青年に逆戻りするのであろう。ここがこの物語の残酷であり、また美しいところであると、私は考える。あの二人は病を抱えているからこそ、きっと人生で一番大切で、美しい時間を過ごすことが出来たのだ。

 

■病とともに生きるということ

「病」というと、私たちは当然のごとく拒否反応を示す。でも劇中でも登場人物が、「病も悪いことばかりではない」と言っているように、ある種の病が幸せを運んでくる瞬間ということも起こりうるし、後藤ひろひとさんはそれを信じているのだろう。そして私たちは大なり小なり、きっと人生に病を抱えている。自分が嫌になったり、上手くいかなかったり、何歳になっても人生に絶望を抱えている。けれども大切なことは、その病を抱えた自分でも、抱えた自分だからこそ、見える世界がきっとあるのだということを信じることなのだろう。それこそがきっと、自分が産まれた意味であり、生きる意味なのだ。精一杯生き抜いた登場人物たちから、そんなことを私は学ぶ。

 

 

パンフレットにて、後藤ひろひとさんが次回作の構想について話をしていた。震災以来、筆を置いてしまったという後藤さん。私は彼こそ、日本演劇界における宝だと思っている。傑作ぞろいなので何度再演を見てもいいけれども、そろそろ新作もお目にかかりたいと思う今日この頃なので、次回作を楽しみにしていたいと思う。