アイドルは電脳握手の夢を見るか

アイドルは青春の縮図。

2015年を振返る(1)乃木坂46

 2015年、アイドル界で一番の飛躍を遂げたのは間違いなく乃木坂46でしょう。

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※映画も公開されました。

 とはいえもともと売れてなかった(※売れてなかったという表現は一般的社会内での認知だけの話でアイドル業界の中で言えばデビューから今までぶっちぎり売れまくっているという認識なのは間違いない)のが不思議なくらいの楽曲の良さとビジュアルのずば抜けた魅力ですので、まさに順当な結果と言えます。個人的には、乃木坂ちゃんが売れてしまうのは遅かれ早かれ必ず起こってしまうことなので仕方ないと思っていますが、この文化系の雰囲気が大好きなので、ビジュアルに惹かれてやってきた体育会系の人たちやリア充の皆様がこの素敵な花園を荒らしてしまいませんように…ということを切に願って止みません…。

 大好きな乃木坂ちゃんですが個人的に今後について課題を感じないわけではなくて、特に感じる課題としては「ライブのクオリティをどう上げていくのか」という部分でした。そんなことを心の中でぼんやり思っていたら、夏のライブツアーのテーマが「乃木坂らしさとは」という内容で、メンバーと自分の思いは決してずれていないんだなということを思い。更にその夏の試行錯誤の結果が乃木坂46とは(秋元康先生の描くダウナー文化系の雰囲気盛りだくさんの)『楽曲』である」という結論になっていたことを受けて、その結論も私とは全然ずれていなかったし、今後はこの目標に向けてどういうパフォーマンスを行っていくべきなのか、という一本の軸が乃木坂46に出来たのだと思うと、2016年も楽しみな思いで身体中が満たされるような気分です。

 

 乃木坂46の魅力を一言で伝えるとすると世間の人にはビジュアルやその雰囲気が一番に刺さっているということは思いますが、個人的には乃木坂の魅力とは、「一緒に仕事をした人たちが心から応援したくなる(ファンになってしまう)」メンバーたちの個性豊かで心優しい人柄だと感じています。

 乃木坂ちゃんはたくさんの人たちとお仕事しておりますが、一度でもお仕事で関わった方々からとても暖かく接していただける場面がとても多く見られます。一番近い話では公式おにいちゃんであるバナナマンとの紅白での触れ合いや、乃木どこに遊びに来てくれたクイズ王(古川洋平さん)もメンバー達の収録時の様子を絶賛していましたし、ライブに来てくれた高橋大輔アナウンサーも乃木坂ちゃんに何かあるごとにTwitterで優しい言葉をかけてくださっています。初森ベマーズのスタッフの方々も乃木坂ちゃんとお仕事をしてとても大好きになったらしく、自分のお金でグッズを買ったり、微笑ましい場面が幾度も見られました。

 私はアイドルちゃんたちと実際にお友達な訳ではありませんので実際にその子たちがどんな性格なのか知る由もありません。ただ、『売れていくアイドル』に必要な要素って、色々ありますが、絶対に必要なものは「周りが応援したくなるような朗らかな魅力があるかどうか」だと思っています。これがないと、どんなに可愛くても、どんなに歌や踊りが上手くても、一瞬だけ売れることはあっても、継続的に長く売れていくことは不可能だと思っています。

 「この子と一緒に仕事がしたい」と思わせることが出来るかどうかは一社会人としてもとても大切なことであり、それが可能な乃木坂46のメンバーというのは、きっとどこに行ってもキラキラ輝くことが出来るだろうと、すごく信頼をおいて見ています。2016年は今まで以上に個人のお仕事も増えるでしょうし、グループとしてもどこかに御呼ばれすることが増えてくることでしょう。今までは言わば、箱庭の中で温室育ちで守られてきた時代であったと思いますが、ここからが真価を問われる時代になるのだと思います。ただ、乃木坂46の魅力は「ビジュアル」だけではなく「その人柄」にあるのだということが十分に世間に浸透した時が、きっと乃木坂46がメジャーへと駆け上がっていく確かな一歩になります。

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 たくさんのメンバーがいますが、掛け値無く素敵な女の子ばかりだと思えるグループです。正直、全員が全員恵まれたポジションにいられない構造ともなっており、それはとても歯がゆいですが、全メンバーが幸せな毎日を過ごせる2016年になればいいなということを、心から願っております。

2016年

 2015年が終わって、2016年がスタートしました。今年は年始からTokyo Idol Projectの番組もありましたし、Tokyo Idol Festivalは3日間に拡大されることも発表されて、アイドル好きが少しずつではありますが増えていて、市場としても拡大されていることを感じられたのではと思います。(番組のつくりがどうか…という問題は置いておいて…私も実はまだ見てないので、見てからまた書きます)

 アイドルを本格的に追いかけ始めた2014年と比べると、2015年は初めて知ったアイドルというのが少なくて、その代わりに2014年に好きになったアイドルたちへの知識を深めていく1年になったと感じています。と同時に、勉強したそばから解散・脱退してしまうアイドルも多数いたり、その一方、無事に復帰を果たしたPOPのサキちゃんのような存在もいて、本当にアイドルって「今が旬」だし「いま見ないと見れなくなってしまう」そんな泡沫のような存在だし、(悔しいけれど)その一瞬のきらめきが魅力的に映るものだよなあということを改めて感じている次第です。

 

 2015年はしばらく握手会以外の用事もないので、2015年の感想を総括したり、気になるアイドルちゃんを少しずつまとめていきたいなあと思います。今年はもう少し、私がそのアイドルちゃんのどんなところに魅力を感じているのか、論理的に説明できるようになりたいなあというのが目標です。憧れはcakesのなでksさんみたいな感じ。

永島聖羅の卒業について思うこと

 乃木坂46アンダーライブ@武道館、両日参加しました。私はアンダーライブ2ndからの参戦で、あの頃はまだかろうじて何人かで協力すればチケットも取れていたため、チケットを確保できるだけ確保し、六本木ブルーシアターに通い詰めていました。ちょうどスキャンダルの色々と重なった時期でもあり、千穐楽でもないのに自然発生的に沸き上がったダブルアンコールがあったり、本編でもとても熱いパフォーマンスを見せてもらったりと、とても思い出深い公演ばかりです。そんな魂は今回のアンダーライブにもきちんと受け継がれていたように思います。 

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 アンダーライブを語る上で欠かせないのが、永島聖羅です。皆さまご存知のことと思いますが、今回のライブにて乃木坂46からの卒業を発表しました。アンコールも一通り終わってラストの曲…といった段階で、チャイムとともに、後ろのモニターに「永島聖羅より皆さんにお知らせがあります」と表示されました。運営からではなく、永島から。この時点で私たちも何が起こるのかを察しましたが、信じたくない思いでいっぱいでその不安を胸の奥に押し込めようとしました。が、次々と泣き崩れていくメンバーを見て、もうその現実から逃げられないのだということを悟りました。

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 卒業発表後の最後の曲は「悲しみの忘れ方」でしたが、悲しみの忘れ方が本当にあるなら今ここで私に教えてくれよと思いました。ガチで。

 

 永島のことで語りたいことがたくさんあります。アンダーライブをここまで連れてきたのは彼女だと思うこと。彼女がいるだけで周りの空気が一気に明るくなること。彼女のMCは天下一品で、メンバーすべてに光を当ててくれたこと。人のことばかり優先する彼女が自分を優先して何か出来ていたらもっともっと人気が出たのではということ。私が握手会に行ったとき、昔からのお友達かと思うくらい気さくに話しかけてくれたこと。それがとても嬉しかったこと。

 色々なことを書きたいと思いましたが、けれど、もう彼女が卒業する事実は変わらないんだと思ったら、自分の書きたい事の色々にどんな意味があるのかなと思えてしまいました。だって、私が書こうと思う彼女の素敵なところなんて、もう乃木坂ファン全員が知っていることで、でもそれでも、乃木坂ファン全員から愛されている存在だとしても、彼女は卒業を決断してしまったのです。

 私たちは本当に永島聖羅のことを大好きだったのですが、それは彼女に上手く伝わっていたのかなということを今はただ考えます。それと同時に、私たちは本当に伝える努力が出来ていたのかというと、きっと出来ていなかったなという後悔。応援するって言葉にすると簡単だけど、決して簡単なことではないと、今回の件で改めて思いました。

 アイドル経験もない一般人がわかったような口をきくなと思われそうですが、社会人として何となく思うのは、グループを辞めるという決断は転職に似ているところがあるということ。今の環境で活躍できている人や能力を伸ばせている人はいいけど、そうじゃないのであれば早く次のステップに自分で自分を連れて行ってあげなければ、どんどん先の選択肢が減っていくという危機感。転職先で上手くいくかはわからないけれども、現状のままではだめだという思い。まったく同一のものとはもちろん思ってないし、グループを辞めて1から芸能活動をやるほうがはるかにキツイと思うけれど、背景の動機としては似たようなところがあるのではないでしょうか。

 乃木坂をやめて個人で活動しだすことは、一部上場企業を辞めて個人事業を立ち上げるくらいしんどいこと(あるいはそれ以上にしんどいこと)だと想像します。現在の環境を捨てて新しい場所でチャレンジすることを、勿体ないとか、バカだなとか、やっていけるのかとか、色々なことを言う人もきっといると思います。でも一歩踏み出せる人は、絶対に何かを変えられる人。そして何よりも財産だと思うのは、永島ならどこに行っても絶対に愛されるから、きっとたくさん起こるであろうしんどいことでも、周りに助けてもらいながら歩んでいくことが出来るという信頼があります。

 

 そんならりんを応援したい…。応援したいと言いながらも、私は彼女に対して「応援」に見合う何かをきちんと提供することが出来るのかと思うと、なかなか声高らかに言えないところもあります。それでも私は彼女の成功を心より祈っていますし、応援していきたい。きっとすべての乃木坂ファンが、同じ気持ちだと思いますし、これからの彼女の活躍が、むしろ楽しみにすらなるのです。

 

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 羽根の記憶の歌詞がとてもぴったりだなということを、今の彼女のことを考えながら思います。

 

 

 

 しかししかし、これから卒業ラッシュにならないといいなって…。不安。胃痛。。。

「リボンの騎士」@赤坂ACTシアター 観劇してきました

 乃木坂46生田絵梨花ちゃん主演の「リボンの騎士」東京千秋楽見てきました。

 リボンの騎士の名前は知っているけれどもストーリーはよく知らないという人多いのではないでしょうか。私も例にもれずそのタイプだったのですが、それでもサファイア姫のビジュアルや、男装の騎士という設定はご存知の方も多いと思います。生ちゃんは虹のプレリュードでも男装をしたことがあるということで、今回も女性でありながら男性、という表現がよく馴染んでいました。お家芸みたいになりそうですね。

 

■男の心と、女の心

 そもそも物語が始まって一番びっくりしたのは、サファイア姫の中に男の心と女の心が入っているという設定ですね。産まれが王家だったから王子のふりをしているだけかと思っていましたが、そもそも両方の心を持っているわけですね。なるほど。だからこそ勇ましさと愛らしさの両面を持っていると。

 物語が進むにつれ、サファイアは次第に自分の心の中に2つの心があることを息苦しく思うようになります。1つの心の容積に2つの心が入っているから、自分でもその心を上手くコントロール出来なくなってくるわけですね。そして次第にどちらかの心のみの自分になりたいと願うわけですが、サファイアは女の心を残したいと願います。何故なら、舞踏会の日に知り合ったフランツのことが、女性として気になっているからです。

 この一連の流れを見てふむふむと…。私たちは誰の心の中にどの心が入っているかわかりませんが、例えば手塚先生風に言うと、同性愛者と世間一般では言われるような人たちの中には、神様の取り違えで身体とは反対の性別の心が入ってしまっているのかもしれませんね。面白いですね。

 

■先進的な手塚先生の考え方

 サファイアはシルバー王国(この名前がまた可愛いですよねー!手塚先生って少女マンガ家として本当に最高峰だと思います!)の第一皇女として産まれますが、国を継げるのは皇子のみというしきたりにより、このままではサファイアの従弟であるプラスチック(バカ)が第一王位継承権を手にすることとなります。そのため、王妃は「この子が成人するまでには、なんとか国のしきたりを変えられないかしら」と王に進言し、王もそれを約束します。そんな背景もあってサファイアは、国民に「男の子」だと偽って育てられるようになります。(たまたま男性の心を宿していて良かったですね!)

 これを見て、ものすごい衝撃を受けましたね!手塚先生がこれ描いたのって1950年代ですよ!?60年前!60年前から手塚先生は、男女のポジションに差があるべきではない、女性だってそう生きたいのであれば男性と同じように活躍しても構わない、と考えていたわけです。かたや、日本はいまだに、天皇に女性が即位してもいいかどうかでぐだぐだとやってるわけですね。虹のプレリュードの時もですが、手塚先生の先進性、そして女性に対する優しくも温かい眼差しに感動しました。手塚先生のマンガを読んで生き方に影響をもらったという人が、きっとたくさんいるのではと思います。

 

■自立した女性とは

 さて、紆余曲折ありながらも、サファイアは最終的にどちらもの心を自分の中に戻すことを望みます。片っぽの心がなくなった自分はどこか穴が開いたようで寂しい、どちらもそろって初めて私なんだということを、徐々に自覚していくわけです。

 話は少し変わりますが、劇中のフランツのセリフで「人の心は不完全で、だからこそもう半分の心を求めるのだ」というものがあります。フランツは、僕にとっての半分はサファイア、君だと言いますが、サファイアはもう2つの心を持っているから私はフランツの半分にはなれないと悩みます。しかし最終的には、サファイアは2つの心を同時に持つ自分を選ぶわけです。これは、フランツのことを「もう半分の自分としては求めるわけではない」ということとイコールだと私は思います。

 さて、もう半分の自分とは何でしょう。例えば自分が男性なら、相手の女性にはおしとやかさや家庭的なところを求めるかもしれませんし、自分が女性なら、相手の男性には社会でも負けない強さや逞しさを求めるかもしれません。けれど結局、「自分が持っていないものを相手に求める」ということは、「自分では達成できないことを相手に期待する」のと少し似ているのかもしれません。例えば結婚であれば、女性は男性に社会的成功を求め、男性は女性に家での家事の完璧さを求めたりします。サファイアがフランツを半身として求めずに、お互いの国をお互いで治めていくという決断をしたということは、まさに女性の自立ということと同意のように私には感じられました。

 なので、舞台版で追加されたという天使たちの、「お互いを尊重した結婚」という言葉は、まさにこの舞台を現代社会で演じることとぴったりだったかと思います。

 

桜井玲香はポンコツキャプテンか

 乃木坂ファンなので、乃木坂メンバーの活躍にはやはり触れたい。キャプの役はへケートという悪魔の娘。作り物の存在のため心を持たず、そのお転婆ぶりに母親(はいだしょうこ)が、サファイアの女の心を身体に入れようと画策します。ただへケートは、誰かに決められた道を選ぶなんてまっぴらごめんと、その母親の画策をぶち壊し、最終的に自分自身らしいままで息絶えるのです。 

 なかなかに豪快なキャラクターで、周りのことをいつも気づかい、自己主張できないキャプとは真逆とも言って良いキャラクターです。ただ、へケートの愛らしさやカッコよさが見事に表現されており、とても良いお芝居でした。また、歌の安定感も素晴らしい。生ちゃんはミュージカル風に歌うことを徹底して教育されている感じがあるので、それと比べるとどうしてもアイドル歌手のそれですが、鍛えればもっともっと伸びると思いました。普段がぼんやりしている子なので笑、演技にどれくらい向くのかなあと思っていましたが、読解力と表現力に優れているので、これからもぜひ舞台に立っていただきたいなあと思います。

 後は課題は、ポーズが単調になりすぎるところと、発声がイケてないところですかね。でもこういった部分は慣れなので、玲香ならすぐに良くなると思います!

 

■女性か、男性か、人間か

 最後に、この舞台を見てやはり触れずにはいられないのは、主演の生田絵梨花ちゃんの魅力についてです。

 このサファイア姫という役が決まった時から思っていましたが、生ちゃんの年代で、これほどこの役にはまり役な子はいないのではと思いました。その感想は舞台を見ても一切変わることはなくて、それは何故かというと、生ちゃんが「女性」という枠を超えて、一人の人間としてとても魅力的であるからです。

 私たち生田絵梨花ファンというのは、彼女の飽くなき向上心、その前向きさに惹かれているところが多分にあると思います。ピアノも歌も演技も上手。人から見ると何でもできて人から羨まれることも多い彼女ですが、乃木坂の1st写真集の後書きで言っていたひとことが忘れられません。「羨ましいって言われるけど、代わってみる?意外としんどいよって思います」才能の人でもあると思いますが、それ以上に努力の人だなあと感じます。

 サファイアは、男の心、女の心の狭間で揺れ動きます。けれどサファイアはどちらの心でも魅力的。だって優しくて、正しくて、頑張るということを知っているから。だから結局は、サファイアの魅力に、男とか女とかは関係ないわけです。それはきっと、生ちゃんも同じですよね。可愛いだけの女の子ならいくらだっています。その中から生田絵梨花という少女を選んだのは、それ以上に人間としての魅力に溢れているから。生ちゃんが男の子だったとしても、私はきっと生ちゃんが大好きですし、今と同じくらい力いっぱい推していると思うのです。

 

 

生ちゃんの舞台は虹のプレリュードも見に行っておりましたが、舞台全体の感想で言うと前回のほうがレベルが高かったなあという印象です。乃木坂組は獅子奮迅の活躍だったと思いますが、前回の中河内中村誠治郎、石井一彰がレベルが高すぎたのが恵まれてたねー。でも前回の銀河は750席で今回の赤坂ACTシアターが1200席くらい…確かに集客という点だと今回のキャストの方がありそうなんだよなあ…。

 

いずれにせよ、早く生ちゃんが帝国劇場に立つ日がた!の!し!み!で!す!ね!ヾ(@⌒ー⌒@)ノ

『ダブリンの鐘つきカビ人間』@パルコ劇場 感想

私が世界で一番愛している脚本家。それが後藤ひろひとである。

 

他の脚本家よりも後藤ひろひとのどのような部分が一番気に入っているかというと、それは彼のことを『非常にロマンチスト』と感じるところだ。そのように感じる脚本は幾つかあるが、その中でもこの『ダブリンの鐘つきカビ人間』の設定には一級品のロマンが詰まっていると思う。

全身カビだらけでみんなに疎まれている男(佐藤隆太)と、思ったことと逆の言葉しか紡げなくなってしまった女(上西星来)のラブストーリー。もう設定からしてロマンが生まれる予感しかしない見事な主人公の柱が2本、物語の中心に打ち立てられている。更にこの向かい側に、この旅行を最後に別れる予定の男(白州迅)と女(塚千弘)という、裏の主人公達が打ち立てられていて、このしっかりとした骨組みの上に、個性豊かな登場人物達が彩られるわけだから、面白くならないわけがない。

 

■「おさえ」と「私」

私はこの戯曲がとても大好きで、そう私に思わせる一番の要因は、やはり物語のヒロインである『おさえ』である。この街の人たちはいろんな病気にかかっているが、おさえは『思ったことと逆のことしか言えない』という呪いにかかっている。「こんにちは」と言えば真意は「さようなら」、「触って」と言えば「触らないで」、「大嫌い」と言えば「大好き」なのである。ここが作中の笑いポイントにもなりつつ、物語の大きな肝にもなる。

おさえは思ったことと逆なことしか言えない。だからこそ、おさえがカビ人間を救おうとすればするほど、周りの人たちには逆の意味で伝わっていく。おさえの言葉はまっすぐに人々に届かないどころか、意図したこととは全く逆の方向に、とても大事な人の運命を運んでいくのである。それでもおさえは叫ぶことを止めない。どんなに運命に翻弄されようとも、「何もしない」という選択をおさえは決してせずに、声をからして全力で叫ぶ。おさえは毎回女優さんが好演してくれるが、今回も上西星来ちゃんアイドルとは思えないほどの好演で魅せてくれた。

おさえを見ているとつくづく思うのは言葉の持つ力である。おさえが思ったことと逆の言葉しか言えない病気であることは観客である私たちも既に周知の事実であるが、それでも「大嫌い!」と目の前で言われると、心がその言葉に引っ張られるのである。その一瞬あとに冷静に頭が働いて、「ああ、彼女は大好きと伝えたかったんだな」ということをようやく理解できる。感情と理解というものはこんなにもバラバラに私の中で動いているのかと、普段生きていると意識しないことまで理解できる。そういう自分の中がバラバラになる感覚を味わった後におさえを見ると、大好きな相手に対して「大嫌い」としか言えない彼女の苦悩はどれほどのものだろうということを思い、より悲しさが増すのである。

ただ、おさえはたまたま分かりやすい病気にかかっているが、実際に生きる中でもそのような病気にかかっている人は少なくないのかもしれないと思う。自分の思ったことを思ったままに表現できない病気。更に言えば、自分自身もおさえのような瞬間があると感じる。自分の紡ぐ言葉が、自分の意図する気持ちとは違う形で他人に伝わってしまうことは、誰だって体験した事がある経験であろう。こんなつもりじゃなかったと思って泣いても、すべては後の祭り。きっと私たち人間は、わかりやすい病気にはかかっていないけれども、誰もが御しがたい、目に見えない病気を身体の中に抱えているのだ。

そんな私たちの心を、おさえをまっすぐに愛するカビ人間の在り方が、強く揺さぶるのだと思う。

 

■「カビ人間」と「おさえ」

まっすぐに届かない言葉におさえはもどかしい思いをするが、大好きな婚約者(かなりの人格者だが)ですらそんな彼女を受け入れようとはしてくれない。けれどもカビ人間は違う。彼女の言葉に丁寧に耳を傾け、受け止めてくれる。彼女は徐々に心をカビ人間に預けていくが、同時に私はいつも、カビ人間に出会えたおさえの幸運を思わないではいられないのだ。

 

美しい容姿に醜い心を持っていた青年が、病によって醜い容姿に美しい心をもったカビ人間になった。最終的におさえの犠牲により街の人々の病は解けるが、もしおさえ以外の人が犠牲になり、カビ人間もおさえも病が治ったのなら、その時はどんな結末が待っていたのだろうか。カビ人間は容姿も心も美しい青年になったのか?いや、恐らくは醜い心の青年に逆戻りするのであろう。ここがこの物語の残酷であり、また美しいところであると、私は考える。あの二人は病を抱えているからこそ、きっと人生で一番大切で、美しい時間を過ごすことが出来たのだ。

 

■病とともに生きるということ

「病」というと、私たちは当然のごとく拒否反応を示す。でも劇中でも登場人物が、「病も悪いことばかりではない」と言っているように、ある種の病が幸せを運んでくる瞬間ということも起こりうるし、後藤ひろひとさんはそれを信じているのだろう。そして私たちは大なり小なり、きっと人生に病を抱えている。自分が嫌になったり、上手くいかなかったり、何歳になっても人生に絶望を抱えている。けれども大切なことは、その病を抱えた自分でも、抱えた自分だからこそ、見える世界がきっとあるのだということを信じることなのだろう。それこそがきっと、自分が産まれた意味であり、生きる意味なのだ。精一杯生き抜いた登場人物たちから、そんなことを私は学ぶ。

 

 

パンフレットにて、後藤ひろひとさんが次回作の構想について話をしていた。震災以来、筆を置いてしまったという後藤さん。私は彼こそ、日本演劇界における宝だと思っている。傑作ぞろいなので何度再演を見てもいいけれども、そろそろ新作もお目にかかりたいと思う今日この頃なので、次回作を楽しみにしていたいと思う。

演劇界がお笑い芸人にとって変わられる日〜マンボウやしろ脚本演出「サイレントキャスター」観劇

 今日は神保町花月で、マンボウやしろさん脚本演出の「サイレンとキャスター」を見てきました。大声で言いたいですが、まだマンボウやしろさんのお芝居に触れたことがない人は今すぐ見に行ったほうが良い!!!!!!特に演劇が大好きで、だけど最近好きなお芝居に出会うことができないなあ…と感じる人こそ、今すぐ見に行くべきです。

 
 芸人さんが作るお芝居がとにかく面白い。餅は餅屋と言いますが、正直その辺の脚本家や演出家よりも面白いものを作られている感じが強くて、舞台オタクとしては嬉しくもあり悔しくもあります。こんなにヒリヒリした緊張感や臨場感がある舞台はなかなかお目にかかれなくて、それは偏に題材の選び方の妙と、キャラクターの生き生きとした描き方からくるものでしょう。それは演じる役者さんも同じ。小手先の技だけではなく、等身大の誰か、というものに寄り添ってその人を表現しきることが出来るのは、芸人さんという存在が絶えず人を観察し、自分の感じた世界を人に共感してもらうために、絶えず努力しているからなのでしょう。
 
 若さはない。絶世の美青年でもない。けれども当たり前に生きる人の悲しみ、喜び、美しさ、覚悟を表現することができる。芸人さんは本当にすごい。うかうかしてると演劇界もいつの間にか、お笑い界にとって変わられてしまう日が来るかもしれない。なぜなら芸人さんたちは常に油断なく、常に成長を重ねてくるからである。
 
 脚本演出のマンボウやしろさんは2,016年にサイコロを振って、1の値が出なかったら芸人をやめるそうだ。その際には是非とも演劇界へ。1人のファンとして楽しみにお待ちしています。けれども、やっぱり芸人としてもそこに立っていていただきたい。そんな気もするなあ。